第905回 W杯初出場の国~オシムの闘い ②

2014年6月6日

昨日の続きです。イビツァ・オシムさんは、サラエボ生まれの名サッカー選手、そして旧ユーゴスラビアの代表監督として大活躍し、祖国が内戦で分裂した後は、欧州諸国や日本で代表監督を務めたサッカー指導者です。1964年東京五輪の代表選手としてもすでに来日しており、東京と「親切で誠実な」日本人のファンになったそうです。ジェフの監督として後世に再び来日した後も、相撲や魚料理や日本酒が大好きだったそうです。

 

独立後のボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリム(イスラム教徒)、クロアチア、セルビアの3つの民族のまとまりに苦労し続けました。相互に不信と時には憎悪がむき出しになり、サッカーの国内リーグ戦ではサポーター間の衝突がいつも懸念事項でした。

2011年ついにFIFA(国際サッカー連盟)は、ボスニアの連盟締め出しを宣告します。ボスニアサッカー連盟にはムスリム系、クロアチア系、セルビア系の3人の会長が鼎立され、それぞれの民族代表として振る舞っていました。規約に反すると会長の一本化を求めるFIFAに対しても理事会は従わず、各協会の不正や汚職まで横行する有り様で、国民的なまとまりに欠け、自分の民族の利益しか考えられない協会には「自浄作用なし」と見放されたのです。
その後FIFAの指導で「正常化委員会」が発足され、その委員長にオシムが推挙されました。旧ユーゴのユース&ナショナルチームを指導した時代に3つの民族の若者をまとめて最強チームを築いた実績や、圧力に屈せずメンバー編成できる力は周知のことであり、統合役になれるのはオシムしかいないというのが衆目の一致する判断でした。

 

“あなたはどの民族なのですか”と尋ねられると、“私はサラエボっ子です”“強いていえばコスモポリタンです”と煙に巻き、いつもオシムは民族主義から距離をおいていました。内戦の際はどの民族の側にもつかず、特定の誰かを非難することを避け、暴力的に強制されることは拒否し、気がつけばスポーツを通じた諸民族の融和という大役が廻ってきたのです。

サラエボ市内で30年間住んできた自宅のあるアパートには砲弾の傷跡が残り、家族の寝室まで砲撃を受けました。思い出深い市内のスタジアムも戦場とされ、スタンドやピッチは傷だらけでした。自分の身体は麻痺がひどくてリハビリを続け、座り続けるも難儀な状態でした。

それでもオシムは、「いろいろ考えたが、この国の問題を解決するできる人物達と会うことにした」「サッカーを愛し、力を貸してくれる人なら、誰であれ逃げずに話し合うべきだ」と表明し、FIFAに示された厳しい時間制限の中で、3民族の政治家や関係者幹部に面会を求めて行脚し始めたのです。

 

自治権拡大と最終独立をめざすセルビア人協会会長とは4時間話し込み、サッカーへの愛とオシムへの信頼を土台にして合意を得ます。最も少数で「いつも蚊帳の外」におかれると不満を持つクロアチア人の会長や政治家には、「少数派の意見を反映させる」約束をして合意を得ます。“よく笑いリラックスして、旧知の中のように会談できた”“人と人とをつなぐのはオシムさんの魅力だ”と相手に言わしめました。

多数派のムスリムの会長は多民族への警戒と不信が著しいものの、政治と切り離してスポーツではまとまろうと力説するオシムに同意し、“3つの民族がみなオシムさんを自分の味方、仲間と考えている”“彼がいて始めて再統一が成し遂げられそうだ”と語ります。2011年5月に正常化委員会は会長の一本化を予想外の満場一致で認めたのです。

 

「国連も欧州議会もできなかったボスニアの団結をオシムがなしとげた」と新聞は報じました。不信と憎悪に凝り固まった人びとの心をどうして動かせたのかと尋ねられて、いつものユーモアとジョークに満ちた例え話で返答がありました。公平を貫いて筋を通す。オシムの存在そのものが鉄のとびらを開かせたのだと、番組のナレーションは的確に表現していました。(明日へつづく)