シリーズ:英語の多読活動 最終回「多読の意義」~今後を見据えて~
21世紀に入り、英語教育が大きく変わろうとしています。特に聞く・話す・読む・書く、の四技能が満遍なくでき、主体的に情報を取得(聞く・読む)し、それを統合的に判断したうえで、自らの考え・意見を発信(話す・書く)できることが今まで以上に求められて来ています。このような中で多読をすることによってどのような益があるのでしょうか?
まずは「英語」という範疇を離れ、「読書をすることの意義は何であるか」を考えてみましょう。筆者は読書が好きで、ジャンルを問わず年間200冊は本を読む読書家(自称)です。「読書をする意義」というと真っ先に思い浮かぶのが「実用性」です。実用面で先人の知恵がふんだんに含まれた本から学ぶことは多くあります。でも、本から得られるのは「先人の知恵」だけでしょうか?筆者が考えるのは、「多様性・豊かさ」です。すなわち、本を通して様々なことを「代理体験する」ことで、人間としての考えの多様性・豊かを身につけていくという事です。例えば、歴史小説を読み、そこに登場する人物のいた時代的背景に思いをはせつつ、その人物の心情を感じ取ることによって、「今」という時間、異なる場所にいながらにしてその人物の感覚を味わうことができるのです。教育における個性の重要性が広がる一方で、メディア等ではまるで「水に落ちた犬を叩く」かのように特定の人・事柄に対する過剰なまでのバッシング行為がみられます。また、言論の自由を盾に、自分たちと異なった背景をもつ人たちを「異質なもの=危ないもの/可笑しいもの」として攻撃したり、揶揄したりする行為はどうでしょうか?筆者が思うに、これらの人たちの心には「多様性・豊かさ」が乏しいという現実があるのではないでしょうか。
さらに、英語という範疇で読書活動を捉え直しても「多様性・豊かさ」から離れることはありません。言語とはすなわちそれを話す人たちの思考そのものです。例えば、英語ではI miss you.という表現があります。日本語で言うと「私はあなたがいなくて寂しいと思う。」とでもなるのでしょうか。日本ではまず滅多に使う機会に恵まれません。もっとも、日本人はこういった直接的な表現はしない傾向にありますね。ただ、英語学習でこの表現を学ぶことで知らずのうちに「多様性・豊かさ」を身につけている事があります。手前味噌で恐縮ですが、私が英語の授業でI miss you.という表現について学習したのが中学3年生のことでした。それからしばらく経って、あるときアメリカのドラマで、主人公が親友と離ればなれになってしまうと言う設定の場面でI miss you.と言っている場面を見ました。そのとき「あ、なるほど!こういう場面で使うのか!と思うと同時に、こういう気持ち分かるなぁ。」と感じたことを昨日のことのように思い出します。
では、多読に話を戻しましょう。改めて「多読にはどのような益があるか」を考えます。受験という観点から見れば、「長文が読めるようになる」というものが挙げられるでしょう。例えばセンター試験で出題される長文は700語程度のもの2題です。結論から言えば、多読に取り組んでいる生徒は700語程度の長文なら楽々と読みこなすことができるでしょう。もちろん、湘南学園は進学校ですので受験指導も重要な根幹をなしているのは事実です。ただし、多読の究極の目的は受験ではありません。多読の究極的な目標は多様性を理解し、豊かな心をもつ全人的な人間を育てることです。この点は湘南学園の校訓「個性豊かに、心身健全、気品高く、明朗で実力があり、社会の進歩に貢献できる、有能な人間の育成」と明らかに呼応するものです。多読活動を通じて、文化の多様性を身につけ、一つの考えに固執するのではなく、柔軟に物事を考えられる心の豊かさを育むことが究極の目的です。もちろん、英語というツールを身につけ、英語で情報収集し、情報を発信することも「社会に貢献する」ためには必要不可欠です。
湘南学園の多読活動はまだ始まったばかりですか、今後の社会を見据えた長期的な取り組みを意欲的に行っていきたいと思います。