シリーズ:ピーターラビット 第2回 実は元祖ESD!?作者ビアトリクス・ポターの知られざる真実

2016年5月27日

 

前回に引き続き、ピーターラビットの世界へようこそ。今回は作者ビアトリクス・ポターを湘南学園の目指す教育「ESD」すなわち「持続可能な社会の担い手をはぐくむ教育」という観点から語っていきたいと思います。

 

前回のブログの内容はこちら

 

そもそも湘南学園の目指すESDとは何なのでしょうか?ESD(Education for Sustainable Development)は一般的に「持続可能な開発のための教育」という日本語に訳されますが、湘南学園では「持続可能な社会の担い手をはぐくむ教育」と解釈しています。もともと「持続可能な開発」という言葉・概念は1980年に国連環境計画や世界自然保護基金が初めて用いた表現で、1987年の環境と開発に関する国連会議で用いられたことで広く一般に知られるようになりました。この当時、後先を考えない目先の利益だけのための開発が世界中で繰り広げられていました。日本もその例外ではありませんでした。行き過ぎた開発や工業化で多くの公害や社会問題を引き起こし、それらを負の遺産として次世代に引き継ぐことになってしまいました。もちろん、開発は人類の発展に必要不可欠ですが、配慮が必要です。ようやく世界全体がこの問題を熱心に議論し始めたのが1980年代になってからのことです。

ビアトリクス・ポターの愛した湖水地方:その豊かな自然に目を見張る

 

それに先立つこと80年。1906年すでに絵本作家として財を成したビアトリクス・ポターは、湖水地方の土地を購入します。はじめは小さな区画を購入するだけにとどまりましたが、父親が自然保護活動団体ナショナル・トラストの第一号会員であったことや、ナショナル・トラスト幹部と家族ぐるみの付き合いもあった影響もあり、次第に大英帝国の発展の陰で消えゆく湖水地方の自然保護活動に本腰を入れていきます。絵本作家として活動した時期は10年と実はあまり長くないものの、自然保護活動はビアトリクス・ポターが亡くなる1943年までの実に40年間に及びます。

(Ⓒ Strobilomyces 2012)

ビアトリクスが最初に購入したヒルトップに農園

 

事実だけを追っていくと「1900年代に財を成した物好きな女性が自然保護のために土地を買った」と映りかねませんが、時代背景を紐解いていくとこれが驚くべき話であることが分かります。そもそも、19世紀や20世紀初頭に女性が自らの力で財を成すこと自体がかなり難しいということが挙げられます。ビアトリクス・ポター自身裕福な家庭に育ったとは言え、親から経済的に完全に独立し、自分の生活のこと以外に、自然保護活動に莫大な金銭を投下することができたという事実には目を見張るものがあります。1900年あたりといえばちょうど日本が日清戦争に勝利し、中国東北部と朝鮮半島の利権獲得のために日露戦争を戦った時代でもあります。この時代日本はイギリスと日英同盟を組んでいました。日本のみならず世界各国が富国強兵のために手段を択ばず、自然の開発にいそしみ、軍艦の建造や兵器の開発に血眼になっていた時代にこうした自然保護活動に取り組んでいたビアトリクス・ポターには畏敬の念を覚えます。今日イギリスで自然豊かな湖水地方を見ることができるのはビアトリクス・ポターに負う部分が大きいのです。

(Ⓒ Skarloey 2007)

現在も湖水地方を走るレトロな機関車:どこかで見覚えが…

 

さて、ビアトリクス・ポターは1943年に亡くなりますが、そのときの遺言で彼女の所有していた広大な湖水地方の土地(総計で16平方キロメートルも!)は自然保護団体であるナショナル・トラストに遺贈されます。彼女の遺体は火葬され、その遺灰は彼女が愛したヒルトップと呼ばれる丘に撒かれたそうです。その正確な場所を知る人はもうこの世にいませんが、彼女はピーターラビットの作品とともに湖水地方に永遠に生き続けているのではないでしょうか。

 

 

 

さて、シリーズ:ピーターラビットの世界ということで、次回はビアトリクス・ポターがピーターラビットの作品を生み出すことになった背景を「教育」という視点から見てみたいと思います。

 


ビアトリクス・ポターの写真(1912年ころ)