第1396回 武居公子先生をご紹介

2018年11月16日

本日は、武居公子先生をご紹介します。

担当教科:国語

担当学年:高校3年生

教員歴:30年以上40年以下(笑)

出身地:東京

 

 

高校3年生の武居教室にお邪魔しました。

本日の授業のテーマは「近世文学」でした。

 

「この時代の大人たちが娯楽をするときにね・・・・」と先生のお話が始まります。

「ただ楽しめばいいというのではなくて・・・いろいろなお作法があってね・・・」

 

・・・先生のお話に引き込まれていきます。

 

「そういうお作法をちゃんと知っているのが『通』、そしてそれが上手にできるのが『粋』・・・」

 

私も聞いていて、「さあ、次は?・・・」と、前のめりになっていきます。

 

「さらに、気が利いて洗練された行動がとれるのが『洒落』っていうわけですね。現代でもこれらの言葉はありますよね。・・・・」

 

授業を受けていたのは、高3文系クラスの生徒諸君でした。みんな集中していました。武居先生の言葉を聞き漏らすまい、という緊張感と同時に、心地よい物語を聞くような空気感の中で授業が進行していきます。

 

しかし、物語を心地よく聞いていると、

「〇〇したのは誰?」と突然、問いがクラス全体に投げかけられます。

生徒諸君も負けていません。即座に、

「えっと、井原西鶴!」と、キャッチボールのように答えを返します。

「そうですね、井原西鶴。井戸の井、原っぱの原、西、そして鶴ですね。鶴ですよ、書けますね。」

 

教室の様子を見ていると、生徒諸君が安心しながら、そして自然に、学びの世界に入り込んでいるのです。一言でいうと「滑らか」なのです。

さて・・・・、この「滑らかさ」の理由とは、一体どういうものなのだろうか?

 

実は、武居先生と生徒諸君の間には、長年に亘る信頼関係が築かれていたのです。中学1年生から6か年もの時間を共に過ごしてきたからこその「信頼と絆」が、教室にはあったというわけです。生徒は、武居先生を信じていました。

 

 

以下、インタビューの内容です。

 

木下  湘南学園の生徒に日頃どのように接していらっしゃるかお聞かせください。

 

武居先生 今の高3の生徒諸君が中学校に入学したときに、まず尊重という言葉を第一に伝えました。尊重というのは、「他者を尊重することだ」ということにとどまらず、「むしろ自分を尊重することが大切なのだ」ということを強調したのです。相手を尊重する。それから自分自身を尊重する。これは「自分を高く持つ」ということでもあります。今の自分が、自身で尊重できるような自分であるのかどうか、が大切なのです。これは、自分の目標を下げないということにもつながります。また、そういう自分を大切にするという気持ちは、単に「わがまま」というものではありません。「自尊他尊」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。中学校に入学して集団生活を始めるにあたって、是非そこは大切にしてほしいと伝えて始めたのです。実は、保護者の方々の中にも私の考えに同意してくださる方も結構いらっしゃいました。

「他の人を大切にしましょう」というのは、おそらく小さいころから言われていることだと思うのですが、自分を大事にするということ(肯定するということも含めて)がすでに身についていることとされているのか、あえて教えるものでもない、と思われているのではないかと思います。人は、自己肯定感が低いと、愚かなことをしたりします。時には、自分自身を傷つけたりすることもあるのです。だから、そういう方向に向かっていくことがないように、私たち教師も伝えるべきなのだと思います。「あなたを一個の人間として、尊重します」という教師側の働きかけが必要なのです。そうして自分自身を大切にするということが次第に身についていけば、臆して発言できない、などということがなくなるのではないでしょうか。あるいは誰かが発言したことを揶揄したり、ということも防げるのです。きちんと思うことが言える、そういう生徒になってほしいのです。普段の授業でも、解答だけでなく、その根拠や理由なども話し合わせるのですが、なかなかユニークな意見が次々と発表され、面白がりながら皆で考える場面もよくあります。私にとってはうれしい光景です。

 

木下 国語の勉強を通じて生徒諸君に得てほしいことは、どのようなことですか。

 

武居先生 もしかしたら一部の生徒の中には、「そもそも教育とは過去のものである」という考え方があるのかもしれません。

ではなぜ学ぶのか。

先人の知恵を1千年かけてまとめ上げてきたものを、再度1千年かけて学ぶとしたらそれは愚かなこと。つまり、学問というのは、先人の英知を一瞬にして受け取ることができる、つまり享受できるものなのだということです。先人の知恵を一瞬にして学ぶことができた時点で、その人はそこからスタートすることができるわけです。それが現代人としての豊かさなのです。彼らには、そういうところを意識して欲しいな、という思いがあります。

「結局、人間は同じようなことを繰り返しているではないか」ということにならないようにするために、まずは「先人の知恵を獲得した」というステップにたどり着いて、そこから「今後、人間はどういう発展をしなければならないのか」へと、思考を広げていけば、無駄な時間を省いた目標到達への近道となるわけです。生徒が古典を学ぶ際に、そういうものの見方があると、過去のものが未来につながるのです。「学んでいることは、単になる過去のものだけじゃないよね」ということに気付くことができればいいですね。

 

木下 それは歴史の勉強にも通じますね。古典の学習とは深いかかわりがある。今日の授業でも年表を用いながら授業をされていましたけど、いわゆる文学と歴史には深いつながりがありますね。

 

武居先生 社会学の入門編で学んだことなのですが、三つの層の土台になるのが政治で、その上に経済があります。これらが安定して初めて文化が生まれるという考えがあります。こうしたこと全体を見ながら学ぶことが必要です。「日本だけではなく外来のものも含めて、さまざまなことを見渡しながら、一つの物語を見るとしたら、一本の線とか、一枚の面とかいうものではなく、立体的なものの見方が出てきて文学はきっと興味深いものになる」と生徒には語っています。例えば、日本史で学んだことや、世界史で学んだことを頭に浮かべながら、「あのときのこういう出来事がこういう文学に関わっていたのだな。こんな表現にこんな思いを込めて、、、」というようなイメージが膨らんでいくときに、結構生徒は、「ああ!」と言ってくれる。その「ああ!」というのが、文学を学ぶ際の一番のモチベーションとして必要なところであり、面白いところですね。「いろいろなことが繫がった!」という学びの世界を持ってもらいたい。そしてそれを持つことができるような授業にしたいなと思っています。

 

今日の授業では、ボードにほとんど書かず、生徒は話を聞き、資料を調べ、解答を見つけて、自らノート、プリントに記入していました。

それから、私は、「与えすぎない」を意識しています。板書もプリントも「与え過ぎ」は、生徒の能力を損ないます。自ら獲得したり、発見したりしながら、「ああ!」と思うような学びができるようにしたらいいなと思うのです。人間の真に持っている能力を開発するということが大切だと思います。もしかしたら時代の変化に従っていないかもしれませんが、私はそこを大切にしたいと思います。自分を「最後の職人」だと思っています。