第610回 ひとつの歌~人びとの気持ちを結びつける力
合唱コンクールの感動が心に残っています。歌う人たちの気持ちをつなぐ音楽の力をまた深く感じとることができました。今日はその関連から、あるひとつの歌のことを紹介させて頂きます。
最近ある社報で、『特集 歌い継がれる長野県歌「信濃の国」』という記事に出会いました。自分が小学生時代に数え切れないほど歌わされ、今でも歌詞を結構覚えている歌です。この歌の作られた歴史的経緯と意義を詳しく正確に知ることができて興味深く、その説明をお借りして紹介させて頂きます。
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し・・・・・・ |
と続く文語調の、長い長い歌です。県内を代表する都市や、御嶽・千曲川など県を代表する山川など地名や名跡、県の歴史的偉人などが長い歌詞に散りばめられ、養蚕や学問など県民が重視するものを上手に列挙し、皆で斉唱すると元気が出るメロディーも覚えやすいです。朝礼や行事のたびに校歌と並んで必ず全校や学年で歌うのが当たり前になっていた歌でした。
「県歌・信濃の国」は、県民の誰もがすぐに歌える稀有な歌として世間でも知られているようです。1998年長野冬季五輪の日本選手団入場でこの曲が演奏されると、観客席にいた県民が一斉に立ち上がり斉唱した光景も話題になりました。進学や就職で県外に出た後、同県出身とわかった途端にこの歌を口ずさみ嬉しくなる体験は自分にも何度かありました。ブラジル移民に多い信州出身者は現地でこの歌を大切に歌い継ぎ、甲子園でも長野県代表校が必ずこの歌を総立ちで歌うそうです。
日清戦争後に軍歌が大流行し、小学校の唱歌の教材としても多用されるようになった時代に、これに心を痛めた信濃教育会が1898年、「子供達が郷土に親しみ、楽しく歌える唱歌」を作ろうと依頼して、この歌は出来たそうです。
長野県は、南北に212kmと長くて山河で分断され、もともと風土や文化の違う地域で構成されています。江戸時代には11もの小藩や天領などに細分化されていたのが、明治の廃藩置県で北部7藩が「長野県」、南部4藩が「筑摩県」となり、更に1876年松本の筑摩県庁が火災で焼失すると、政府は一方的に筑摩藩を廃して長野県に併合しました。不便さも募る中で分県を求める住民運動が激化し、しこりが深く残ったそうです。
作詞者は松本~長野で歴任した師範学校の国語教員で、双方の願いを汲み取って、南北の代表的な名所・自然・人物・産業をなどを七五調に配列して詠い上げ、歌うと県内を何巡かして親近感がわくように工夫したのです。そこにやはり師範学校の別の教員が、明快で勇壮にしてリズムカルな曲をつけました。20世紀に入ると県全域の学校に普及し、運動会など学校行事で定番となって愛好されました。第二次大戦後に別に制定された県歌はまるで普及せず、明治百年にあたる1968年に「信濃の国」が正式に県歌と決まりました。県民意識と一体感を深めた大切な歌なのです。
東日本大震災を経て、日本人は自分たちが生まれ育った故郷や、長く生活した地域へのいとおしい想いをより深めたと指摘されています。関連して校歌の大切さにも改めて気づかされます。在校生諸君と歌える機会をもっと増やしていかなければと思われます。