第641回 東日本大震災から二年間を経て
本日は、東日本大震災が勃発してちょうど二周年にあたります。全国各地で様々な追悼の催しが行われ、テレビや新聞でも引き続き様々な特集が報道されています。本校でも今日午後2時46分に全校で1分間の黙祷を捧げます。
あの時、本校も稀有の状況に直面しました。巨大地震の勃発に驚き、部活動で登校中の在校生は校舎内に避難しました。テレビ情報などから甚大な災害の実相が伝わり、大津波警報も発令され、多数の在校生や近隣住民の方々と共に夜を明かしました。生徒達は助け合いと協力で頑張ってくれましたし、PTA幹部の方々は炊き出しに駆けつけて下さいました。翌朝、藤沢駅まで集団下校して無事に一段落しました。
その後年度末の学校運営は困難となり、新年度開始まで様々な活動を規制しました。その後学園全体で防災体制が強化され、備蓄補充、放射能測定、節電対策、津波想定の避難訓練などに取り組んできました。また被災地向けの募金活動に全学で取り組みました。生徒会でもチャリティーイベントの実施や被災地への訪問援助に取り組みました。
被災地における復興へ向けた様々な懸命の努力や、故郷に戻れない不安の中で懸命に人びとが生活する姿などについては、貴重な報道や記録が残され、その気になれば数多く接し、事実を知ることが出来ます。
在校生の皆さんにもご家族の人たちと、積極的にそうした情報に目を向けて欲しいと思います。年月は過ぎても大震災の経験を風化させてはなりません。当たり前だった日常生活が様々な人達の仕事と貢献によっていかに支えられ、家族親族や友人、周囲の縁ある人びとの絆やつながりがいかにかけがえのないものであるか、いつも心を留め、深め直して欲しいと願っています。
最近観た番組の中から1つ紹介します。NHKスペシャル『3.11あの日から2年 わが子へ~大川小学校 遺族たちの2年~』です。
宮城県石巻市大川小学校を襲った大津波の惨状はあまりに過酷でした。全校児童108人のうち70人が亡くなり、4人が今も行方不明です。地域の宝、子どもという“希望”を失った家族と地域が、その後どのように暮らしてきたのか、長期取材に基づき紹介されていました。
番組では始めに、前年春に桜をバックに撮った学年ごとの集合写真が紹介されます。教職員も10名亡くなった中に27歳の先生がいました。「息子が子供達を助けてあげられなかったのは事実ですから、その気持ちをどこまでも持っていかねばならない」とその両親は、四六時中その学年の写真を持ち歩いています。畑仕事に精を出していると、隣の畑に偶然その写真にいた孫を亡くした祖母が来て心の内を明かし合い、両親が育てた葉牡丹を小学校の中庭に供養で飾ることになります。ご両親はひとけのない月命日の前日に祈りに行きます。
ある父親は学校にいたわが子および迎えに行った妻とわが子二人、あわせて四人を亡くします。まだ見つかっていない一番下のお子さんを、今も自分の手で重機を使って大量の土砂をかき分けて探しています。そのご父母も小学校の近くに住みながら孫達を守られなかったと自分達を責めます。遺族は子供達の名前を付けた食品を心を込めて作って販売するようになりました。
中学進学を目の前に新制服を残して亡くなった三番目のわが子について、大川中学校の教員である父親は、自分が同じ立場にいたら助けられただろうかと当初は声を上げることが出来ませんでした。しかしその後自らの立場を明かして妻と共に記者会見に臨み、真相究明を求めて専門家による新たな検証開始を実現させました。今は防災教育の先頭に立って活動しています。
それぞれが絶望の淵で悲しみに耐えながら新たな生活へと動き出し、お互いを思いやる気持ちでつながりを深めながら、同じ地域で暮らしていました。
こうしたドキュメンタリー番組を録画を基本になるべく観るようにしています。家族にも可能な範囲でと録画の視聴を勧めています。そこからたくさんの大切なことを確認し、考えることができます。家族揃って事実を知り、会話のきっかけにしてもらいたいなと思います。